丹羽 族
にわ・やから



(1815〜1868)


会津藩士。
名家丹羽の支族。父能教の五男。
戊辰会津戦争のとき、野尻代官兼兵糧総督。
(慶応4年)5月19日、長岡城が落ちたとき、藩主・牧野忠訓は家族とともに会津へ脱れたが、7月29日の再落城のときは、河井継之助をはじめ長岡藩士が大挙この道(八十里越え)を通って会津へ避難した。その数1600人といわれる。おそらく一般市民で焼け出されて逃げ延びてきた者も多数いたはずである。
丹羽族はこれら避難民の救助補給を命ぜられたのである。彼は属僚を励まし、土地の人々を諭し、百方手を尽くしてその対策にあたったが、なんといっても嶮しい山の中であり、食糧事情も悪く、人家そのものも少ないところに、戦いに疲れ、飢餓に倒れそうになった将兵と避難民が陸続と日夜を分かたず逃げてくるのである。とても手がまわりかねたのも致し方あるまい。また土地の人々も、この状態がいつまで続くのか見通しがつかぬとあれば、たとえ丹羽たちの説得を諒承したとしても、なけなしの貯蔵食料をむやみに供出するわけにもいかなかった。
しかし丹羽族としては農民の窮乏もさることながら、家を焼かれ、将来の目安もなく、ただ目前の恐怖から逃れようと会津藩を頼ってくる老幼婦女子を見ると、そのあわれさに胸が痛んだ。とくに深層に育ったお姫さまたちが、乗るべき輿もなく、わらじも皮膚を破って堪えがたいためにほとんど裸足になり、息もたえだえに嶮しい山坂をたどり、泊るところといっても屋根の傾いたあばら屋に身分の低い者と雑居し、そのうえ一個の梅干さえ思うようにならず、ひえやあわの粥をすすってわずかに飢えをしのいでいる有様を見ることは、すべて自分の努力の至らなさとして眼に映じた。
丹羽は心の痛むたびに東奔西走して村人たちを説諭し、倉を開かせて、できるだけの給養に努めたのであるが、とても不足を補うことはできなかった。ついに万策尽きた丹羽は、<断然身を殺して数千の将卒を救はんと決し、公務の合間合間に遺書を認め、深更に至りその日の業務終るを待ち、予て用意の酒肴を命じ、属僚以下を会し莞爾として酒杯を挙げ、談笑の間に奉公の至誠を説きて一同を犒ひ、或は之を慰め、上下歓談時を移して宴を徹せしが、族再び自室に入りて遺書を認め、翌午前2時頃に至りて筆をおき、従容として腹を屠り喉を掻き切りて死す>(
『会津戊辰戦争』
<属僚之を見て驚愕為す所を知らず、遺書を翻読再三して、其忠魂義魄に感激し、各村の代表者を会して之を伝へければ、一同感激措く能はず。各々家を空にして米穀を搬送しければ、給養頓に潤沢となり、漸く大衆を救ふを得たりといふ>(
前掲書
住民は感激し、その後の食料調達は順調に運んだといわれる。会津若松市大龍寺累代の墓所に葬る。

参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社
綱淵謙錠氏著『戊辰落日』文春文庫



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