南摩 綱紀
なんま・つなのり



(1823〜1909)


会津藩士。
舎人助綱雅(300石)の三男として若松に生まれ、通称は八之丞、号は羽峰。
藩校日新館に学んで頭角をあらわし、弘化4年(1847)25歳で江戸昌平黌に遊学を命じられる。詩経・洋学を究め儒を以て聞ゆ。嘉永4年(1851)に退寮し、藩命により洋学を学ぶために杉田成卿・石井密太郎に師事する。また、命により安政2年(1855)から4年にかけて関西諸州を歴遊、各地の風俗、藩政の概要などを見聞して『負笈管見』を著す。帰って洋学舎を創設。1862年(文久2年)蝦夷地守備のため樺太に渡り樺太警備、また北海道東岸80里間の幕領代官を務めて6年を過ごし、慶応3年(1867)京都にのぼった。
鳥羽、伏見の戦いに敗退後、危険をおかして大坂に潜み、形勢を探ったのち帰藩。また奥羽列藩の間を走り情報を収集。藩命を帯びて庄内藩に赴き、会庄同盟をはかる。
開城後、越後高田に謹慎。
赦免後は京都府の学職に就き、太政官、文部省を経て文部省東大教授、東京高等師範教授、女子高等師範学校教授をなど歴任。
明治42年4月13日没、87歳。従四位勲四等。
墓は東京都台東区谷中霊園。

参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社

間島勲氏著「会津藩士人名小事典」 歴史春秋社『幕末会津藩』所収



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