中根 米七
なかね・よねしち



(1820〜1878)


会津藩士。
源吾右衛門忠愛の五男。名は兼高。太子流の剣術に優れていた。
文久2年(1862)藩主容保に従って上京したときはすでに43歳、京では二条家の護衛などに当たった。
鳥羽・伏見の戦いを経て、会津戦争では城外で戦い、戦後は戦後越後高田藩に幽囚の身となる。
斗南移住を経て会津塩川に戻った

全国の不平士族らが新政府への不満をつのらせる中、明治7年(1874)に高津仲三郎と佐賀に行って中西七三らと時事を語り、さらに鹿児島まで足を伸ばして桐野利秋や篠原国幹らとも意見の交換をしている。東京に戻り、永岡久茂らと協議し、萩の前原一誠 らと呼応して武装蜂起することを決断するも、思案橋事件(明治9年10月29日)で計画は頓挫、同志多数が捕縛される中、捕吏の手を逃れて京都の実弟、又八のもとに潜伏、さらには九州へ奔り、桐野利秋に与して西南戦争に参加した。西郷軍の敗色が濃厚になったころ、桐野によって脱出させられるとも伝えられるが不詳。
福島で一度逮捕されるが脱獄、密かに会津へ戻り潜伏しているところを旧友の飯河小膳と野村唯三郎が訪れて説得し、その意を汲んで翌朝に自刃して果てた。自刃場所は耶麻郡熊倉村(福島県喜多方市熊倉町)の杉之下墓地。墓は同所。
ちなみに野村唯三郎はかつて越後高田で幽囚生活を送ったときの同室者で、会津戦争当時は15歳の少年兵であった。野村は父親ほども年の離れている中根を尊敬し、この中根を訪問した際は巡査という立場にありながら、敢て逮捕せずに中根自身の意志に任せたのである。


参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社
佐藤一男氏著
「中根米七」『幕末・会津藩士銘々伝』新人物往来社 所収




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