内藤 貫道
ないとう・かんどう



生没年不詳


会津若松真龍寺住職河井善教二男。
慶応4年、戊辰の役が勃発すると僧籍を離脱して絶家となっていた内藤家を興し、内藤貫道を名乗る。
藩の正規部隊(青龍隊か?)に編入され、城外で奮戦するも鶴ヶ城の開城により塩川に謹慎。配流先の越後高田への移動中か、あるいは到着後間もなく脱走。弟・善順の会津松平家救済活動を助けていた気配があるものの詳細は未詳。
斗南へ家族で移住したが、ほどなく若松に戻り、邏卒に奉職する。
会津戦争か西南戦争で被弾した鉄砲玉が生涯身体の中に残っていた、という口伝がある。
明治14年没、享年50。
墓は真龍寺。


参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社




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