内藤 介右衛門
ないとう・すけうえもん



(1839年〜1899年)


会津藩士。
家禄は千七百石(のちに二千二百石)。

家老・介右衛門信順(号は可隠)の長男として生まれ、幼名近之助名は信節。弟に同じく家老に昇進する梶原平馬景武、のちに彰義隊に入隊した武川信臣がいる。
甲斐の武田信玄麾下「武田二十四将」の1人である内藤修理亮昌豊には嗣子がなかったため、高遠城主保科弾正忠正敏の次男を養子に迎えた。その後戦国期終焉の動乱を経て、この血統が保科正之に仕えて保科家の大老となり「会津内藤家」の祖となった。したがって会津松平家と内藤家は縁戚である。内藤介右衛門信節は、この「会津内藤家」の9代目で、天保10年生まれ。11歳で家督を継ぎ、藩主松平容保が京都守護職に任命されると23歳で京都勤番、25歳で若年寄。禁門の変の際、長州軍を撃退した後態勢を立て直すため退き、直ちに守りを固めなければいけない所を、薩摩藩に守備を任せた為、閉門を仰せつけられ、若年寄を非職させられる。翌慶応2年(1866年)9月27歳で若年寄に復職すると、同日家老に昇進する。 このとき実弟の梶原平馬も家老職に就いた。
また、慶応3年2月、会津藩は守護職の辞職を幕府に申し入れるも聞き入れられず、介右衛門信節は会津より上京し、板倉を訪ね容保の一時帰国を了承させる。
平馬と共に奥羽越列藩同盟を推進し、西郷頼母が白河口の総督を罷免されると、変わりに白河口の総督となる。

会津戦争時は当初勢至堂方面の陣将として出陣していたが、母成破れるの報に接し、大平口の原田対馬隊を吸収して1000名の大部隊となって強行入城を果たす。籠城戦中は三ノ丸の守備を担当。この間、
一族が面川の菩提寺「泰雲寺」にて集団自刃している。
戦後、東京での謹慎を経て1870年(明治3年)斗南・五戸へ移住、辛酸をなめながら藩の存続に尽力したが、明治4年7月、廃藩置県によって藩が消滅。多くの旧会津藩士たちが会津へ戻る中にあって介右衛門はそのまま五戸村に残留し、現地の開拓や子弟の教育に生涯をかけた。今でも「内藤田」の地名が残っているという。明治32年(1899)6月16日没。享年61。
墓は青森県三戸郡五戸町愛宕後の光明山高雲寺。

参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社
塩谷七重郎氏著
「内藤介右衛門」『幕末・会津藩士銘々伝』新人物往来社 所収)




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