日向 内記
ひなた・ないき




(1826〜1885)


会津藩士。白虎隊士中二番隊長。
700石・日向三郎右衛門長男として生まれ、内記は通称、諱は次法。内記の日向家は、会津藩内に10家あった信濃系日向氏の総本家にあたる。
京都守護職時代の禁門の変に番頭組の組頭として参戦、戦功をあげて褒賞されている。御家老組の組頭に昇進した後、鳥羽伏見の敗戦を経て会津藩は軍制を改革、内記は朱雀士中二番隊中隊頭に任命された。しかし実戦に至る前、山川大蔵の後任として砲兵一番隊隊頭に転任、日光口の守備についた。前任の山川が極めて優秀な指揮官であったためか、砲兵隊内における内記の評価は芳しくなく、それが為か否かは不明ながら、内記は再び転任を命じられ、今度は白虎士中二番隊の中隊頭となった。当初の士中白虎隊の主な任務が藩主護衛であったことを考えると、最前線の指揮官からの転任はやはり更迭の意味もあったと考えられなくもない。
1868年10月7日(慶応4年8月22日)西軍の十六橋突破の報を受け、白虎士中二番隊にも緊急出撃が発令され、内記に率いられた白虎隊の少年たちは一気に滝沢峠を越えて戸ノ口原まで進出する。その夜、食料の調達に出かけるために内記は少年たちを残したまま陣を離れ、おそらくは強清水に置かれた本営の佐川官兵衛らと策を練っている内に、翌早朝からの激戦となり、帰隊できないまま白虎士中二番隊はほぼバラバラとなって、その一部が飯盛山での悲劇を迎えることとなった。内記が飯盛山での少年たちの自刃を知ったのは開城後であったという。上級将校として本営に詰めるのは当然であったにしても、指揮を徹底していなかったために隊士の多くを死地へ追いやった隊長としての責任は免れ得まい。
籠城後は、生還した白虎士中一番隊と二番隊の隊士を合同して白虎士中合同隊を発足させ、この中隊頭として開城まで西出丸の防衛にあたっている。ちなみに、このとき一緒に内記の指揮下に入っていた郡上藩・凌霜隊の内記に対する評価は非常に高い。
開城後、謹慎生活を経て斗南へ移住、廃藩置県ののち会津へ戻った。
人望もあったが部下を見殺しにした白虎隊長と不評判で世に出られず、家族とともに苦労した。
喜多方に居を構え、明治18年(1885)11月14日没。
墓は福島県喜多方市北町の満福寺。

参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社
前田宣裕氏著
「日向内記」『幕末・會津藩士銘々伝』新人物往来社 所収



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