永岡 久茂
ながおか・ひさしげ



(1840〜1878)


会津藩士。
父は治左衛門。通称は敬二郎。字は子明。号は磐湖・当肉楼主人。昌平黌に学び詩を善くした。
文久2年(1862)、藩主容保の京都守護職就任にともなって上京、天狗党の騒乱の際には高津仲三郎らに状況を探らせる。
奥羽越列藩同盟では梶原平馬の片腕として同盟締結の為奔走。
会津戦争時は、自ら仙台に出向いて奥羽列藩同盟の基を築き、越後に飛んでは長岡藩の河井継之助に働きかけて北越連合を成功させた。衝鋒隊の古屋佐久左衛門に一隊を任されるほどの信頼を得る。若松本城が籠城戦に入ると、仙台湾に停泊中の榎本艦隊に夜を徹して駆けつけ、総帥の榎本武揚に艦隊の新潟回航を要請するもうまくいかず、代わりに借りた兵も会津に戻る途中で離散してしまった。久茂が白石で詠んだ「独木誰支大廈傾」で始まる七言絶句は、秋月悌次郎・安部井政治のものと合わせて「会津の三絶句」として知られている。
鶴ヶ城開城後は仙台に潜伏し、明治3年に会津藩士の謹慎が解除されてから若松に戻って藩の再建に尽力する。新藩地が陸奥北部か猪苗代かの選択に迫られた際、猪苗代を主張する町野主水とあわや斬り合い寸前にまでなった話は有名。この頃長州藩・前原一誠等と知り合ったと思われる。
斗南藩では1870年(明治3年)倉沢平治右衛門や広沢安任とともに小参事となり、新生会津藩(斗南藩)を軌道に乗せるべく粉骨砕身の努力をし、大湊を商港として発展させる計画を立てるも成らず。
明治4年7月に廃藩置県となって藩は消滅、久茂らの努力は水泡に帰した。
1874年(明治7年)、田名部支庁長を辞して上京、評論新聞社を創立。『評論新聞』をはじめとして『中外評論』『江湖評論』などを次々と発刊し、言論による新政府批判を展開する。久茂の舌鋒の鋭さに辟易としつつも、その論法の的確さに感心した伊藤博文や井上馨が日参するようにして任官を要請したが、断固としてこれを拒絶し続けたという。1876年(明治9年)10月29日、言論のみの新政府攻撃の限界を痛感した久茂はついに武力蜂起を決断、萩の前原一誠 ・奥平謙輔と呼応して兵を挙げるべく同志とともに千葉に向かう途中の思案橋で警官隊と衝突し、この時に受けた傷がもとで捕縛されたのちに鍛冶橋監倉署で獄死する。
享年38。
遺骸は東京都台東区今戸の称福寺に葬られたと伝えられ、事実ここで山川健次郎らによって追善供養会が催されているが、現在墓石は行方不明になっている。


参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社
佐藤一男氏著
「永岡久茂」『幕末・会津藩士銘々伝』新人物往来社 所収




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