武川 信臣
むかわ・のぶおみ
(1845〜1868) |
会津藩士。 家老・内藤近之助信順(2200石)の三男。二人の兄(内藤介右衛門・梶原平馬)は、ともに後の家老。信臣は温厚な性格で文武に長じ、特に和歌の道に秀でる。 1868年(慶応4年)鳥羽・伏見の戦いに敗れ江戸に退く。 軍勢立て直しのため彰義隊に入り信意隊長として約80名の隊士を率いて奮戦するも、利あらずに敗れて江戸市中に潜伏する。この間、見廻り組頭取・佐々木只三郎の実弟である佐々木源四郎の家で同志との打合せを重ね、再起を謀っていた。しかし、小者として使っていた宗兵衛なる者がこの会合の件を新政府軍側に密告したため、佐々木源四郎宅に踏込んできた鳥取藩兵によって捕縛される。玄関でこの乱入を止めようとした源四郎は射殺された。大名小路の獄へ入れられたが、広沢富次郎(安任)の牢室と隣り合わせとなり、やはり同獄となった覚王院義観や成川尚義、山内昇らとともに、夜になると歌会など開いていたという。 彰義隊の残党ということもあってか信臣に対する獄吏の拷問は極めて苛烈で、三角木の上で正座させ、その膝の上に大石を積んでいくという「石抱きの責め」が連日行われたため、皮膚が破れて肉が裂け、骨も砕けて、周囲は血だらけになった。しかし信臣は顔色ひとつ変えず、その責めに耐えた。当時詠んだ歌として「君と親の重きめぐみに比ぶれば 千引きの石の責めはものかは」が伝わっている。 明治元年10月9日、斬首。 大赦令が出る、わずか3日前であった。 遺体は、会津藩の御用商人であった中島屋忠次郎が小塚原回向院に葬り石碑を建てたというが、現在は何も残っていない。 墓は福島県会津若松市門田町面川泰雲寺にもある。 参考 『幕末維新人名事典』新人物往来社 宮崎十三八氏著 「武川信臣」『物語・悲劇の会津人』新人物往来社 所収 |
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