北原 雅長
きたはら・まさなが



(1842〜1913)


会津藩士。
天保13年(1842)に会津藩家老・神保内蔵助利孝の次男として生まれる。兄は鳥羽伏見の戦場から徳川慶喜を離脱させる一因を作った責を問われて自刃した神保修理。通称、半助。会津藩士としては最高の家禄を誇る北原家の、一族である北原光吉の養子となる。
京都守護職を拝命した藩主松平容保に従って京都に赴き、王城守護の中枢にあって多くの機密に携わりつつ禁門の変で戦闘にも参加。
会津戦争では母成峠で大鳥圭介や田中源之進の隊の参謀役を務めた。籠城後、謹慎地の東京で会津戦争の責を負って自刃した萱野権兵衛の最期を見届け、遺骸を芝白金の興禅寺に埋葬する。
東京での幽囚が赦された後、明治6年に新設された工部省に勤務、さらに秋田県権大属・長崎県少書記官・対馬島島司を歴任し、従六位に叙せられる。
明治22年4月1日、初代長崎市長に就任。同郷の日下義雄知事の下で上水道の建設に尽力する。明治31年8月、東京市下谷区長。晩年は静岡県浜松市に居を移した。明治37年会津藩の戊辰戦争につき藩の誠忠を披瀝しようとして『七年史』を上梓し、孝明帝から賜った御宸翰の件を含めて会津藩が逆賊ではなかったことを初めて公表するも、不敬罪で拘留される。大正2年7月24日、「人の世を離れてすめる月影に さそわれて行く西の山の端」の辞世を残して病没。
享年71。
墓は静岡県浜松市の高松山西来院にある。

参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社
勝田多加志氏著
「北原雅長」『幕末・会津藩士銘々伝』新人物往来社 所収




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