町野 主水
まちの・もんど



(1829〜1923)


会津藩士。
320石。町野家の遠祖は蒲生家の重臣だったが、蒲生家が転封になった後も会津にとどまり、保科正之に仕えてそのまま会津松平家の家臣となった。町野主水は通称・源之助といい、諱は重安。
1864年(元治元年)禁門の変の際、「御家老組組頭」の役職にあった父・伊左衛門の「介添」として京にのぼっていた主水は、窪田伴治に続き飯河小膳とともに二番槍の功名を上げている。
慶応4年、御蔵入奉行兼幌役を命ぜられた主水は会津藩飛領、越後の小出島に赴任し三国峠を守備したが、閏4月24日の戦いで実弟・久吉を戦死させたのち小出島まで撤退、さらに攻められて越後戦線へ移動した。8月11日、佐川官兵衛の後任として最精鋭の朱雀士中四番隊の隊長に就任し、北越戦線を転戦するも、若松城下に西軍が侵攻したとの報に接して急ぎ城下に戻る。熊倉の戦いを会津軍大勝利に導いた後、一ノ堰の大激戦の最中に陣将・萱野権兵衛の命により軍事奉行・樋口源助とともに鶴ヶ城に入城し、藩主容保に米沢藩からの降伏勧告を伝える。その間、家族5人が河沼郡の山中で自刃。
開城後、「謹慎ノママ居残リ取締リ申付ル」との新政府軍軍務局からの達しを受け、「若松取締」に任ずる。この間、戦死者の埋葬に尽力。
「自分の死後は城下に放置されていた旧藩の人々と同じように葬って欲しい、立派な埋葬では泉下の仲間に申し訳が立たない」とのちに自分の子に常々言い聞かせて実際に彼が亡くなった際、子はそれを守り藁に筵を被せたのみの状態で墓所へと運んだという。
会津松平家が再興を許された際、立藩の地を猪苗代か下北か選択することを求められ、主水は強く猪苗代を推したが、結局山川浩らが推す下北の地に決定した。斗南藩である。
明治期、主水は斗南へは移住せずに北小路52番地に居を構え、若松の復興に全力を傾注した。
晩年、会津弔霊義会の発起人代表。大正12年6月9日没。
享年85。
墓は会津若松市融通寺。

参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社
前田宣裕氏著
「町野主水」『幕末・会津藩士銘々伝』新人物往来社 所収




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