黒河内 伝五郎
くろこうち・でんごろう



(1803〜1868)


会津藩の武芸者。
羽入良節義卓の二子として享和3年(1803)に生まれた。名は義信・兼規。御側医師・黒河内治助兼博に神夢想無楽流の居合術を学んで、その養子となり、のちに指南役となる。養家は代々神夢想無楽流の居合の師範を務めた家柄で、曽祖父左近兼孝は居合の術をもって宝暦3年(1753)正月、10石2口俸を賜って新に芸者(師範)となった。祖父治太夫兼義、父兼博、みなこれを継いでその師範となった。
禄は13石2人扶持。また白井流の手棒手裏剣術・穴沢流の薙刀術・稲上心妙流の柔術をも指南し、吹針にも妙技を見せた。和歌にも巧みであった。
伝五郎は短身白哲にして容貌女子の如くであったが、その技はただ居合のみでなく神夢想一刀流の剣術、稲上心妙流の柔術、手裏剣、鎖鎌、みな師範の域に達した。とくに天保年中(1830−44)師志賀小太郎が長州藩に招聘せられるや、他の高弟数名とともに随行し、同藩子弟に槍術を指南した。また文芸においては沢田名垂の高弟として和歌をよくし、その実景を詠ずることに長じた。野矢常方、西郷近思、柴茂蔭らはみな雅友であったが、平生詠草を留めず、したがって遺稿も残されていない。また嘉永5年(1852)、吉田松陰が会津を訪れた際には日新館を案内している。伝五郎には二子があり、長男を百太郎、次男を百次郎といった。
戊辰の役において百次郎は佐川隊甲士として北越にあったが、6月の戦いで傷を負い家に帰って治療していた。8月23日、西軍若松の城下に迫るのを見るや、晩年に失明していた伝五郎は百次郎を介錯し、自分も自刃した。
享年65であった。
長男百太郎は二番砲隊にあったが、これまた翌24日に戦死した。
晩年は失明、会津戦争の際自刃した。
墓は会津若松市七日町阿弥陀寺。

参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社
小島一男氏著『会津人物事典(武人編)』歴史春秋社



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