倉沢 右兵衛
くらさわ・うへい



(1825〜1900)


会津藩士。
名は重為。戊辰の頃は「倉沢右兵衛」。後に平治右衛門。上田八郎右衛門氏彬の六男。家禄400石の倉沢家を継ぎ、のちに若年寄となる。
主君・容保に従って京都にあり、京都常詰公用人。中川宮の朝廷内に占める比重が重くなるのに反して、宮家の人材不足が露呈したこともあって、宮家に貸し出され、事実上宮家の諸大夫同様の立場にたった。そのため、元治元年5月段階で宮側から会津側に対し倉沢の宮家への移籍が打診され、会津側は3年ほど倉沢を宮家に貸すことに同意した。
鳥羽・伏見の戦いに従軍。会津戦争終結の後は、越後高田に謹慎組の指揮者として同僚の世話をし、斗南移住後は藩の少参事として移住者の入植のために奔走した。

廃藩置県後は三戸郡五戸町中ノ沢に住み、旧斗南藩の救貧院を継承して機織場とするなど、残留士族の救済に尽力した。また、私塾「中ノ沢塾」を開き地域の子弟に漢学を教授し、その門下からは江渡狄嶺(思想家)や鳥谷部悦人(教育家)らなど有為の人材を養成し、青森県の教育文化に貢献した。
明治33年12月10日、五戸町に没す、76歳。
墓は青森県三戸郡五戸町の曹洞宗光明山高雲寺に合葬の墓がある。
法号は曹源院範岳儒翁居士。

参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社



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