神保 内蔵助
じんぼう・くらのすけ
(1816〜1868) |
会津藩士。 代々家老職を務める神保家に内蔵助経周の長男として生まれる。名は利孝。神保修理・北原雅長らの実父。 世禄は800石であったが戊辰時には1200石となる。 1858年(安政5年)若年寄、1863年(文久3年)家老となる。1862年(文久2年)藩主松平容保が京都守護職になると、御家老組陣将として上洛。 元治元年(1864)、禁門の変には藩兵を率いて出陣し、山崎天王山に立て篭もった真木和泉らを新選組とともに包囲し、退陣した真木和泉らを追撃して、和泉以下17人を自刃させた。 会津戦争時には六日町口を守って苦戦し、この口が破れたあと、五ノ丁土屋一庵宅で同僚の家老・田中土佐とともに自刃する。 53歳。 墓地は福島県会津若松市七日町の阿弥陀寺の「戦士墓」、建福寺にも墓がある。 法号は忠岳院殿賢道量義居士。 参考 『幕末維新人名事典』新人物往来社 間島勲氏著「会津藩士人名小事典」歴史春秋社『幕末会津藩』所収 |
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