窪田 伴治
くぼた・はんじ



(1826〜1864)


会津藩士。
吉村忠一の次男。母は阿部氏。初めの通称は蔦次郎。名は忠順。窪田直保の養子となり、与力。
会津藩の京都守護職時代、家老内藤近之助信節隊寄合組独礼11石2人扶持として京都にあった。元治元年(1864)7月19日早朝、長州藩は文久3年(1863)8月18日の七卿落ち、元治元年6月5日の池田屋騒動等、一連の事件の元凶は会津中将松平容保にありと、容保を討って朝廷に強訴すべく3隊に分かれ、御所に殺到して来た。会津藩は3面より攻撃を受けて忽ち苦戦となり、蛤御門を放棄して内裏の唐門の守備に移ったが、長州兵はさらに内裏に突入しようと唐門を強攻してきた。唐門を守る会津藩の将内藤近之助信節はあくまでも死守すべく応戦部下に突撃の命を下した。このとき間髪を入れずに飛び出した伴治は「窪田伴治一番槍」と叫び大身の槍を振って敵の真っ只中に飛び込み、忽ち2,3人を倒したが、敵弾に当たって壮烈な戦死を遂げた。続いて飯河小膳、町野源之助が「二番槍」と絶叫して敵中に躍り込み、これまた重傷を負った。かくて激戦を展開中、薩摩藩が駆けつけて長州兵に砲撃を開始、形勢は忽ち急転、長州兵は総崩れとなって退却した。
このとき伴治39歳。
諡は武信霊神。京都黒谷の会津藩墓地に葬る。
墓は会津若松市東山の愛宕神社北側にもある。
のちに靖国神社へ合祀された。
一子重太郎忠信は100石を賜り、外様組付として召し出されたが、西南の役で戦死。

参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社
小島一男氏著『会津人物事典(武人編)』歴史春秋社



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