窪田 重太
くぼた・じゅうた



(生年不詳〜1877)


会津藩士。
窪田伴治の長男として若松城下杣町に生まれ、重太郎と称した。父・伴治は元治元年(1864)蛤御門の変で一番槍の手柄をたてて戦死、重太郎は13歳の若年であったが外様組付に取立てられて禄100石を賜った。
戊辰の役では白虎士中一番隊に編入となった。一番隊は8月23日早朝、西軍が城下に侵入した際、甲賀町口郭門を防衛して戦った。郭門が破れての後は城中に退いて手薄の南門を守備、天神口より出撃する小室隊、山浦隊の援護にあたった。27日、白虎士中一・二番隊は合流して白虎士中合同隊と改め、西出丸防衛総督家老原田対馬の指揮下に入った。
戦後は猪苗代に謹慎、さらに東京に護送された。
赦されて斗南に移住、その後東京に出て警視庁巡査となり、名を重太と改めた。
明治10年、西南の役勃発するや三等巡査で出征、別働第三旅団第四大隊一中隊二小隊所属として5月18日、熊本県中尾山の戦いで奮戦及ばず敵銃弾に倒れた。重太はその死に臨み、「余の父は蛤御門の一番槍となって国に殉じた。余もまた国に死す。いささかも悔ゆるところなし」といって絶命、見守る者皆涙したという。
大正4年4月13日、西南の役における戦死者の霊は靖国神社に合祀され、永くその忠節を表された。霊号を信忠霊神という。
愛宕神社境内には、武信霊神・信忠霊神と父子の霊号を刻んだ供養碑がある。

参考
小島一男氏著『会津人物事典(武人編)』歴史春秋社



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