郡 長正
こおり・ながまさ




(1856〜1871)


会津藩国家老・萱野権兵衛長修の二男。
父長修が藩を代表して戊辰戦争の責任を取り切腹して果てたため、姓を郡と改めた。
会津藩は1869年(明治2年)陸奥斗南に3万石として再興なり、権大参事・山川浩などが藩学再建、子弟育成の為に有能な少年を各地で匿って貰う運動に尽力し、翌年藩より選ばれ、長正は同輩7人とともに九州豊津小笠原藩(福岡県)の育徳館に留学する。
通説では豊津藩留学中に郷愁を覚えた長正が食べ物が口に合わないと食事についての不満を記した母宛の手紙(もしくはそのことに対する母からの返信)を落とし、これを豊津の少年に拾われ「会津の武士道とは食事の文句を言うことか」と小笠原藩士の子弟に大衆の面前でののしられ、会津武士道の面目を著しく貶めてしまったため、長正は会津武士の屈辱を雪ぐべく藩対抗剣道大会で完勝、その後自刃した、とされてきたが、事実は常日頃から戊辰戦争中の小倉藩(豊津藩)の態度に対して行っていた誹謗中傷が著しい誤解だったことに気付き、尚且つ降伏した会津人たちが小倉藩の厚情のもとで東京へ護送されたこと、その際に少なくない脱走者が出て豊津藩へ多大な迷惑をかけたこと等々を知るにいたり「豊津藩主様にお詫び申し上げる」として自ら命を絶ったのだという。
時に16歳の若さだった。
遺骸は丁重に豊津甲塚の墓地に葬られ、墓石が故郷会津に正面して建てられた。
豊津育徳館では生徒が義に反する行いをすると「そんなことで郡長正に顔向けができると思うのか。長正の墓前へ行って謝って来い」と、長くその後も長正の行いを称え続けたという。
墓は福岡県京都郡豊津町甲塚。

参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社
宇都宮泰長氏著『会津少年郡長正自刃の真相』鵬和出版




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