小森 駿馬
こもり・しゅんめ



生没年不詳


会津藩士。
小森一貫斎(450石)長男。
戊辰の役のとき駿馬29歳。鳥羽伏見の役後、父・一貫斎は会津に帰り朱雀士中一番隊中隊頭として白河口、母成峠の守備と、軍務に専念するに及び、馬術に秀でた駿馬は父の代役として容保の側用人を務めた。
8月21日母成峠破れ、23日若松城下は西軍の包囲するところとなり、9月22日、城は開城となって戦争は終結する。
戦後、猪苗代謹慎所から東京に護送された駿馬は凡そ1年半の謹慎生活の後、容保の嗣子容大が家名の再興を許されて斗南に移ることになると謹慎が解かれ、上北郡藤坂村に入居した。
明治6年6月東京に移住、44年9月27日没した。
法名を直伝院坦道英駿居士という。東京麻布の永平寺別院長谷寺に葬られた。

参考
小島一男氏著『会津人物事典(武人編)』歴史春秋社



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