小森 一貫斎
こもり・いっかんさい



(1815〜1871)


会津藩士。
禄高450石。7代小森悌蔵(450石)の長男として、文化12年(1815)に生まれた。幼名を千代吉、また久太郎と称した。
江戸詰で、藩主松平容保の京都守護職時代は公用人となり活躍。
戊辰戦争では朱雀士中一番隊中隊頭として初め楊枝峠を守り、のち白河方面に転戦した。白河口の戦いに参戦。8月21日の母成峠の戦いでは軍事方として参戦、破れての後は城に入って籠城した。その後、若松城本丸軍事局に出仕し、軍事奉行となった。9月16日手代木勝任、秋月梯次郎らとともに降伏の使者を命じられた。
会津開城後は東京に護送され、明治4年、神田町の佐倉藩堀田邸に幽閉中病死した。
墓地は東京都港区西麻布の長谷寺にある。

参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社
小島一男氏著『会津人物事典(武人編)』歴史春秋社



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