小出 光照
こいで・みつてる



(1845〜1874)


会津藩士。官吏。
会津藩士篠田覚左衛門の子として弘化元年(1844)、城西郭外の新町、石塚観音の後の邸に生まれ、鉄之助と称す。小出只五郎の養子となる。
藩校日新館で学び一等試験に合格した俊英。弱冠にして小姓に選ばれるが、小姓にあることは本意ではなく、辞退。
僅か半年で江戸に上ることを許されて古屋佐久左衛門の塾に入り洋学を学ぶ。些細なことから帰藩を命じられた際、古屋の奨めもあって脱藩を決意して外国船に乗るが、鳥羽・伏見の敗報に接して翻意、横浜に潜んだのち日光へ走り、山川大蔵に面謝して帰藩を嘆願する。許されて会津戦争では軍事方勤。
戊辰戦争時は各地に転戦。
降伏後、猪苗代に謹慎。このとき真龍寺住職河井善順の手引きで秋月悌次郎とともに脱走、長州藩の奥平謙輔を頼り、藩主の助命を嘆願する。その後東京へと移され東京での謹慎中も、善順とともに木戸孝允や大村益次郎らの間を藩の再興をかけて奔走、その間に得た情報は御家再興の大きな力となった。
赦免後、山川浩の妹・操と結婚し青森県斗南へ移住。
廃藩置県で斗南藩が消滅すると、弘前県の中属を経て松前福山開拓支庁長となったが、ほどなく辞職して1873年(明治6年)佐賀県大属となる。
翌年、江藤新平が中心となった佐賀の乱が勃発し、県庁が包囲されると「糧食を得ずして死なんよりは、むしろ敵丸を得て死なん」と衆の先頭に立って賊軍の中に斬込み、壮烈な戦死を遂げる。ときに明治7年2月18日、38歳。
墓は東京都港区高輪泉岳寺のち東京都台東区谷中天王寺に改葬。

参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社

小島一男氏著『会津人物事典(武人編)』歴史春秋社 より要略




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