津川 喜代美
つがわ・きよみ
(1853〜1868) |
白虎士中二番隊自刃隊士。 若松城下、郭内四之丁100石高橋誠八三男。母えつ子。 幼いうち米代二ノ丁150石・津川瀬兵衛隼人の養子となった。 津川家はかつて肥後の加藤清正に仕えた家系であり、加藤家が取り潰された後の寛文年間に保科家の臣となったという。喜代美、背が高く、面長で色白、眉が濃く鼻筋が通り、眼が鋭かった。ある日の日新館からの帰り道、道にいた蛇を友人たちが打ち殺そうとしているのを見、「よせ。蛇など殺しても誰もその技量を褒めてくれやせぬ。無駄で無益な殺生はすべきでない」と止めさせた。友人たちは皆素直に喜代美の言に従ったという。 心優しく生き物を可愛がり、指導性があった。 ある時、狂犬が喜代美の指にかみついたことがあった。すると喜代美は自分の指を噛みきって地面に投げつけ「これで犬の毒が体にまわる心配がない」と大胆に言ってのけたという。 普段から君恩に報いようとする心が一倍強く、常に一刻も早い出陣を願っていた。戦陣にある兄に宛てた「すでに出陣して行った(白虎)寄合隊が羨ましい」という意の手紙が残っている。 戦場にたつとき「かねてより親の教えの秋はきて今日の門出ぞ我はうれしき」との和歌を詠じた。 西軍を戸ノ口原で防戦したあと、飯盛山で力尽きて同僚と自刃した。 墓は福島県会津若松市一箕町飯盛山。 (自刃時16歳) 参考 『幕末維新人名事典』新人物往来社 宗川虎次氏著『補修會津白虎隊十九士伝』会津弔霊義会 他 |
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