山川 健次郎
やまかわ・けんじろう



 
(1854〜1931)


東京帝国大学総長。日本初の理学博士。
会津藩士・山川尚江の次男。大蔵(浩)の弟。
戊辰の役には15歳で白虎隊に編入されるが、(編成年齢の変更で)除隊されて仏学稽古を命じられる。
慶応4年(1868)8月23日早朝、新政府軍が滝沢峠から進攻してきた時には、滝沢本陣の奥の部屋で仮眠していたが、敵弾が撃ち込まれたので驚いて飛び出し、飯盛山西方の田園から、市外東端に至り入城した。
籠城中は再編成された白虎隊に入り、城近くに迫った敵に対して出撃。15歳の割には背が高かったが、やせていたので薙刀を持つのに苦労したという。3・4丁程追撃して敵を追払い、帰城。
開城後は塩川に謹慎。この間、会津の秋月悌次郎が、かねてより交流のあった長州の奥平謙輔に、会津藩の子弟を書生として預ってくれるよう依頼し、奥平が快諾したため、健次郎と小川亮、その他1名が選ばれて寺小姓に扮して出発。奥平に束修として相州秋広の刀を持参したが、あまりの名刀であるから、途中怪しまれない様に刀屋に預けて持参した。又、健次郎は謹慎中、丸腰であったので、祖父(高齢のため若松に居住が許されていた)が出発に際して刀をくれたが、無銘ながら大和物の名刀であり、これも悩みの種になったという。越後にいた奥平のもとに到着し、一緒に上京。程なく奥平が帰国したので越後に戻り、明治3年(1870)春には松平家が再興されたので再び上京。芝の増上寺に会津藩の宿坊徳水院があり、ここに学校が開かれたので入校。夏頃、旧幕臣であった沼間守一の塾に入る。同年暮、「藩の留守居役同道で弁官(現在の内閣書記官)に出頭せよ」と命じられ、アメリカ留学を申付けられた。これは、会津藩の者は寒い国に育ち、維新の際にも立派に戦ったから、人材を選んで開拓の方法を学ばせ、北海道の開拓にあてようと意図されたものという。
渡米してからはエール大学附属理学校で学び、明治8年(1875)帰国して東京開成学校(東京大学の前身)の教授補、教官、理科大学長。明治34年(1901)東京帝国大学総長。勅撰議員となり、明治44年(1911)には九州帝国大学総長、京都帝大総長兼任。その間に貴族院議員・枢密顧問官を務め数多くの著作物を残している。彼は「長州藩は勤王倒幕、会津藩は勤王佐幕」として、「京都守護職始末」や「会津戊辰戦史」を編集、維新史上で四面楚歌だった会津藩の立場を明らかにし会津や松平家のためにも尽力した。のち男爵。
墓は東京都港区青山霊園山川家墓地。

参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社
前田宣裕氏著『会津戦争の群像』歴史春秋社



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