河原田 包彦
かわらだ・かねひこ



(1853〜1869)


会津藩御蔵入奉行河原田治部信盛(160石)の長男として嘉永6年(1853)12月6日に生まれた。諱を信俊といい、また隆孝ともいった。
戊辰戦争勃発時、父・信盛は君命により蝦夷地にあり、包彦は16歳であった。伊南方面の守備には、旧領主河原田氏の子孫ということで、若年ではあったが包彦が任命され、父に代わって数百の士卒を率いて国境桧枝岐村沼山峠の守備についた。5月11日、檜枝岐口防備隊の探索の者が沼田より戸倉にかけて6藩1200名の大軍が詰めかけて来たと報告した。檜枝岐口では色めき立ち、田島陣屋に報告したが、包彦は宮沢御用場におりまだ16歳であったが、河原田氏は伊南の領主の末裔でもあり、早速12日、旧臣に宛てて「我が宗の大事」と結集を呼びかける檄文を発した。戸倉の西軍を襲撃して手柄をたて、また父信盛が国難に臨んで蝦夷地より急遽帰国、駒止の嶮を越えて西軍に当たろうとしたとき、包彦もこれに呼応して西軍を挟撃、敵を数十里の外に退けるなどの軍功を挙げた。しかし9月22日、主君松平容保は白旗を掲げて恭順したので戦いは止み、包彦は越後高田に謹慎して官命を待ったが、病魔の侵すところとなり、翌明治2年8月10日死去した。
享年17。
墓は上越市大貫(狼谷)の会津墓地にあるが、南会津郡伊南村古町照国寺には追惜之碑が1894年(明治27年)に建てられた。
法名を貫忠院殿義照隆孝居士という。
明治24年8月、包彦の23回忌法要に当たり、宮沢河原田富吉など有志相計り、追惜之碑建立を計画、27年、伊南照国寺境内に同碑竣工(篆額は松平容大、撰文は南摩綱紀)、9月10日慰霊祭が執行された。


参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社

小島一男『会津人物事典(武人編)』歴史春秋社




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