河原田 治部
かわらだ・じぶ



(1828〜1903)


会津藩士。
河原田順吾信壽(160石)の子で、文政11年(1828)に生まれた。幼名百太郎、真一郎、治部などと称した。信盛。長男は包彦。
藩校日新館に学び、弘化元年(1844)、17歳のとき藩主・松平容敬の小姓となって江戸に上った。翌年帰国して大野原の追鳥狩に参加、以後度々の恩賞にあずかった。
万延元年(1860)父が隠居、33歳で家禄160石を継ぎ、木本組に属した。文久元年(1861)日新館に出仕。同2年火術方主役。同3年江戸勤番。同4年、1年間の蝦夷地勤番。慶応2年(1866)6月、38歳で再度蝦夷地勤番となり、北方海辺の防備にあたる。この時の勤番は常詰郡奉行として家族同伴で赴き、鳥羽伏見の敗報を正月24日に聞いた。信盛はこの敗戦を主家存亡にかかわる一大事と思い、命はなかったが2月に婦女子を先に帰国させ、自分は閏4月22日、帰国の途についた。途中暴風雨に見舞われ、28日まで漂流を続けて29日、ようやく越後青島(粟島)に着いた。5月2日、新潟奉行に会ってようやく天下の最も新しい形勢を聞くことができた。
その後津川で桑名侯に謁し、5月16日、若松に到着した。翌17日、萱野権兵衛の取り計らいで藩主容保に謁し、命なくして任地を離れてきたことのお詫びを言上した。それまで、南会津地方は旧河原田氏の領主筋に当たるということで嫡子包彦が指揮役を負っていたが、包彦はまだ若年なところから、倅出張致しているも幼年なれば防禦方不安の旨をもって願出て、御蔵入奉行となり、御蔵入の行政と軍事を一手に握り、多忙な毎日を送ることになった。
かくて信盛は伊南郷の農兵編成に着手し、「河原田精神隊」と名付けた。7月を過ぎたころより神奈川伝習隊士の大木鈴太郎、中川七之助両人の助力を得て、砲術、進退、駈引等についての農兵訓練を開始した。しかるに7月29日、長岡城は早くも陥落、長岡兵や婦女子、会津兵などが混雑して八十里越を越えて叶津に着き、只見川に沿って若松へ向かった。長岡藩家老河井継之助は8月5日に会津側に越え、傷重くして塩沢村において8月16日に没した。この時西軍は、8月6日に峠の越後側登り口吉ヶ平村を占領していながら、約1ヶ月間吉ヶ平村に留まったのち、9月2日に至ってようやく会津側叶津に侵入して来た。その後も若松には向かわず、只見、黒谷、小林と遡り、大部分は布沢村より吉尾峠を越えて野尻に止まり、ここで指令所を設けた。9月10日ころ、高遠・飯田・後れて金沢の兵らは伊南川の左岸沿いに上流に向かい、途中会津兵がいないので14日には大橋まで進み、加賀兵は右岸を進んでこの時山口まで達していた。このころ、信盛は田島の陣屋にあった。山崎小助、江上又八の隊と共に信盛の農兵隊がおり、彼等は立岩郷と駒止峠口より攻撃し、西軍を山口・大橋のあたりで挟み撃ちにすべく作戦をたて、信盛は針生峠から山口へと兵を進め、西軍を野尻まで後退させ、野尻攻撃の作戦がまとまった25日夜、会津落城の報が届いた。
戦後は古町で区長を勤め、のち若松に移住。享年76。墓は、会津若松市大塚山。

参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社

小島一男氏著『会津人物事典(武人編)』歴史春秋社




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