河井 善順
かわい・ぜんじゅん



(1836〜1893)


僧侶。
天保7年(1836)、若松真龍寺第8世住職善教の子として生まれる。長兄である9世善譲に子がなく、その養子となり若松の浄土真宗真龍寺の第十世住職となる。名は順といい、智海とも称する。
19歳で越後に遊学し、のち京都の本山西本願寺の学寮に入る。
1862年(文久2年)会津藩主松平容保が京都守護職になると、藩士たちと交流。
その間に勃発した元治元年(1864)の禁門の変に際しては、敗走してきた長州兵を隠匿したとして会津兵が西本願寺を焼き討ちにしようとしたのを、自ら会津藩首脳を説得してこれを未然に防いでいる。西本願寺法主はこの善順の行いに感謝し、一介の末寺でしかなかった会津真龍寺を院家にすすめ、善順に清涼院の称を与えてこれに報いた。

戊辰の役後、長州藩士奥平謙輔の手紙を猪苗代の謹慎地にいた秋月悌次郎に届け、これが契機となって新政府の要人と会津藩首脳部とのパイプが構築された。なお、将来のために会津の少年の教育を奥平に託すべく、猪苗代の謹慎所を脱走させた山川健次郎と小川亮を命がけで送り届けたのも善順である。猪苗代に謹慎していた藩士たちが東京へ護送されると、善順もこれを追って東京へ行き、一時還俗して僧籍を離れ、新政府の要人等を歴訪して会津藩主の助命と藩の救解に尽力した。明治5年以降は、北海道での布教活動や寺院建立に力を注ぎ、明治26年8月20日会津若松真龍寺で没した。
享年58。
墓は福島県会津若松市行人町の真龍寺。

参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社
山川健次郎氏著『善順上人の伝』




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