河原 善左衛門
かわはら・ぜんざえもん



(1827〜1868)


会津藩士。
河原勘兵衛政明(130石)の長男。名は政良。
1862年(文久2年)松平容保が京都守護職になったとき、公用方として上京。
京都では学校奉行副官、別戦隊副長。善左衛門は時勢を冷静に、しかも大局的に見る眼を持っており、将軍が大政を奉還した以上は、鳥羽・伏見での抗戦を謝罪して恭順すべき旨を主張していた。幕兵および会津藩士の中には、外国の武力を借り、あるいは輪王寺宮を奉じて西軍に対抗しようとする動きがあったが、これに強く反対したため、暗殺されかけたこともあった。のちに公事奉行に昇進、会津帰国後は国産奉行。
梶原平馬に随行して仙台・米沢藩の家老らと会談し、和平工作につとめたが、結局、成功しなかった。西軍が会津の国境に迫ってきたのを知ると、ある夜、部下の将士を集めて酒を振舞い、各人の生命を自分に預けてくれるように頼んで、自ら決死の覚悟を述べたという。
明治元年8月23日、西軍が大挙して若松に進撃すると、善左衛門と長子勝太郎父子は部下とともに滝沢村八幡山で奮戦して長男勝太郎・弟岩次郎らと共に戦死した。
42歳。
墓は大窪山の河原家墓地にある。霊号は政良神霊。
戦死。墓は福島県会津若松市門田町大窪山墓地。

参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社
間島勲氏著「会津藩士人名小事典」歴史春秋社『幕末会津藩』所収)




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