簗瀬 勝三郎
やなせ・かつさぶろう




(1852〜1868)


白虎士中二番隊自刃隊士。
若松城下、本二ノ丁物頭350石簗瀬源吾三男。母とく子を10歳で失い継母みを子に育てられた。
8歳か9歳の頃、家僕とともにマツタケ狩りに出かけたときのことである。弁当を松の根元において夢中になってマツタケを探しているうち、この弁当を皆鳥に食べられてしまった。空腹に困じ果てていると、ほどなく家僕が大きな柿を持って来て勝三郎に差し出した。勝三郎は喜び、すぐにこれを食べようとしたが、ふと思うところがあって「これはどこから持ってきたのか」と家僕に尋ねてみた。すると家僕は最初口を濁していたが、勝三郎のまっすぐな瞳に耐えられず、ついに近くの農家の木から黙って持ってきたことを白状した。勝三郎はうなずき、諭すようにこう言ったという。「如何に飢えたからといって、他人のものを盗ることは許されぬことだ。御苦労だが、お前はこれからこの柿の持ち主を探して、謝って来るように」幼い頃から、曲がったことの大きらいな性格であったのである。
勝三郎は文より武を好み、精を出していた。
馬、弓、槍、剣と 各々一流の師につき学び、17歳でこれほど上達した少年は珍しいと言われた。フランス陸軍式調練は畠山五郎七郎や沼間守一に学んだ。隊士中、武術面では勝三郎が最も光っている。
戊辰の役に出陣の際、ズボンも嫌わずフランス式軍装をした。
飯盛山で自刃。
墓は福島県会津若松市一箕町飯盛山。
(自刃時17歳)

参考
小島一男『町名歴史散歩』歴史春秋社
『幕末維新人名事典』新人物往来社



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