神戸 岩蔵
かんべ・いわぞう



(1847〜1865)


会津藩士。
会津藩目付180石・神戸内蔵盛義の子、名を綱衛。
幼年より学を好み13歳で講釈所に進み、14歳で書学一等となり、他日を期待された俊才。
安政3年(1856)、原田七郎(対馬)という美少年をめぐって郭内で刃傷事件が起きた。難事件で判決まで3年もかかり、高木豊三郎という者が切腹、岩蔵の兄・民治は永代揚屋入りとなった。弟・岩蔵は家名回復のため、ひとかどの御役に立ちたいと藩庁に願出た。
藩では、その頃後日に備え、有為の者に中国諸藩の見学を考えていたこともあり折り良く岩蔵の父内蔵が常府(江戸勤番)であったところから、岩蔵も幼少の頃から江戸弁であることに着目、岩蔵を間者として長州に潜入させることにした。岩蔵は文久3年(1863)6月23日に家を出発したが、家族は生きて帰れぬものと覚悟し、この日をもって岩蔵の命日とし、法要を続けた。時に岩蔵19歳であった。
岩蔵の長州における行動は不明だが、馬関(下関)や長府の内情を探っては京都に送っているうちに、これが慶応元年(1865)5月に発覚し長州藩に捕えられ捕われ獄中に病死した(毛利家乗・長府日記)とも道玄堂山において打首となったとも、果ては一説には斬殺されたともその最期は諸説がある
なお兄の民治はその後赦されて、慶応4年(1868)9月17日、青龍隊士中三番隊半隊頭として門田一ノ堰村において戦死した。
行年31。
墓は山口県長府市松小田地内。

参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社
小島一男氏著『会津人物事典(武人編)』歴史春秋社)




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