一瀬 要人
いちのせ・かなめ



(1831〜1868)


会津藩家老、1300石。名は隆知、伝五郎とも称す。天保2年(1831)生まれ、妻の幾与子は西郷頼母近悳の妹。慶応2年9月家老一ノ瀬要人隆鎮が他界したのち「要人」を襲名して若年寄となる。
藩主松平容保が京都守護職のとき、番頭として随行。蛤御門の戦いに奮戦、慶応4年、家老。
会津戦争では越後口総督となり、桑名藩の立見鑑三郎、長岡藩の河井継之助らと共闘、北越戦線を転戦する。
長岡城攻防戦では、負傷し戦死を覚悟した河井を秋月悌次郎とともに説得し会津領内に退避させている。この北越戦争において、衝鋒隊の今井信郎と米沢藩の軍事参謀である甘粕備後が要人に対して「惰弱」という評価をしているが、総督としては攻撃型の将ではなかったのであろう。戦場が若松城外に移り、熊倉の戦いでは新政府軍を撃退したものの、9月15日の一ノ堰の戦いでは自ら陣頭に立って銃を撃つという大激戦のなか被弾して重傷を負い、21日に桑原の病院で藩主容保からの開城を告げる親書を受け取ったのち、22日に諦観したように息を引取った。享年38。

墓地は会津若松市一ノ堰の光明寺。碑文に「没後依藩命、移葬干此地、諡日大忠院殿武法執威居士」とある。

参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社



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