山本 覚馬
やまもと・かくま



 
(1828〜1892)


会津藩士。
文政11年(1828)、銃術・砲術師範山本権八の長男として生まれる。9歳で日新館に入学し、23歳で全課程を修了。
嘉永5年(1852)、砲術隊長の林権助の随行員に選ばれて江戸藩邸勤番を命じられた。江戸では佐久間象山の塾に学び、佐久間象山、江川太郎左衛門や勝海舟らの指導を受け、吉田松陰・小林虎三郎・河井継之助らとも同門の知己となる。
安政3年(1856)会津に帰藩して日新館内に蘭学所を設立させ、教授となり南摩綱紀らと教鞭をとった。この間、兵制改革で重臣と激論を交わした挙句、1年間謹慎させられたことなどもあったが、林権助のとりなしで軍事取調役兼大砲頭取に任じられ、兵制の近代化に尽力した。
元治元年(1864)2月、京都守護職として京にあった藩主容保から上洛を命じられて上京、藩砲兵隊を指揮する。また、師であった佐久間象山と再会し、彼の提唱する天皇の遷座計画に同調して広沢安任と密かに動いていたらしいが、象山が暗殺されて計画は頓挫したという。
同年7月19日の禁門の変に際しては、大砲隊を率いて戦っている。慶応元年(1865)から翌2年にかけて眼病を患い、ついに失明。慶応4年(1868)正月、鳥羽伏見で戦端が開かれると、盲目になったため京から動かずにいたところを薩摩藩兵に捕われて薩摩藩邸に幽閉された。しかし覚馬の人物の優秀さを知っていた薩摩藩首脳部は、これを決して粗略に扱わなかった。この幽閉中、「管見」という将来の日本のあるべき姿を論じた論文を口述筆記し、薩摩藩主に呈している。これを読んだ西郷隆盛らはますます敬服し、いっそう待遇をよくしたという。
釈放後1869年(明治2年)から京都府顧問となり、翌1870年(明治3年)4月、兵部省の顧問格に登用され、近代化に貢献した。
以後京都の発展に尽くし、初代京都府会議長、商工会議所会頭などを歴任し、1875年(明治8年)に新島襄と会い、キリスト教に共感。
妹の八重子を新島に嫁がせて義兄弟となり、新島を援けて同志社の設立にも貢献した。
墓は京都市東山区若王子同志社墓地にある。

参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社
畑敬之助氏著
「山本覚馬」『幕末・会津藩士銘々伝』新人物往来社 所収



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