堀 粂之助
ほり・くめのすけ
(1838〜1868) |
会津藩士。 砲兵隊寄合組堀清左衛門の長男。諱は光器(みつかた)。 温厚篤実、堅忍不抜のうえ文武に優れ、藩校南学館の助教授を勤める。 京都守護職時代は精選組隊士。 会津戦争当初、母成を守っていたが、西軍の急襲により突破されたため、やむ得ず鶴ヶ城に退いて籠城戦に入る。 戊辰8月藩主・松平容保の命を受け、吉村寅之進とともに西軍の包囲網を命がけで突破し、米沢藩に救援依頼に出向き、慶応4年9月3日米沢城下に至る。しかし、米沢藩家老・竹俣美作の応対は実に不明瞭で要領を得ないものであった。実はこの時点で米沢藩は、越後戦線から戻った千坂太郎左衛門らによって、新政府軍に恭順することがほぼ決まっていたのである。竹俣は、かつて米沢藩が存亡の危機にあったとき、これを救ってくれた会津藩祖・保科正之の恩を忘れてはおらず、粂之助らの涙ながらの懇願を一蹴することができなかったのだという。同行の吉村は仙台に行くことを勧めたが、君命を果すことのできないことを知った粂之助は「このままで何の面目があって会津に帰れようか。かくなるうえは、腹切って殿にお詫び申し上げるのみである」と決然と言い放ち、「何を言うか、我々の使命は援軍を連れ帰ることにある。米沢が駄目なら、仙台に行くべきだ」という寅之進に対しても「我らが命じられたのは、米沢からの援軍を得ることである。仙台からではない」と決意を曲げず、米沢東町の旅籠「越後屋」の主人に金子を与えて後事を託し、一室で自刃して果てた。 享年31歳。 辞世「神かけて誓ひしことのかなはねば ふたたび家路思はざりけり」遺体は、その死を悼んだ米沢の人々の手によって市内の龍泉寺に葬られ、昭和46年には改修された上に辞世の歌碑も建てられている。 参考 『幕末維新人名事典』新人物往来社 長谷川和夫氏著 「堀粂之助」『幕末・会津藩士銘々伝』新人物往来社 所収 |
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