梶原 平馬
かじわら・へいま



    
(1842〜1889)


会津藩士。
天保13年(1842年)に会津藩家老・内藤介右衛門信順の次男として若松城下に生まれ、幼名を悌彦と称した。兄に同じく家老となった介右衛門信節、弟に後に彰義隊で活躍し、刑死した武川三彦信臣がいた。会津藩の名家・梶原家へ、山川浩・健次郎・捨松の姉である二葉を娶って養子に入る。
文久2年京都守護職に就任した容保に従って上洛、慶応元年24歳で若年寄を仰せ付けられ、翌2年3月には病の為若年寄を御免となっていた兄の内藤介右衛門信節を追い越し一足先に家老職を拝命、養父の名である平馬を継いで平馬景武(のちに景雄)と称し、家老横山主税(常徳)の亡き後、京都にあって藩外交の表面に立ち、諸藩・幕府・朝廷・諸外国との交渉に活躍する藩外交の最高責任者となった。
この頃英国の駐日公使館書記官であったアーネスト・サトウは会津藩出身・通訳の野口富蔵の仲介で平馬に会う。贈り物として数巻の淡青色の絹の紋織りとハリー卿とミットフォードとアーネスト・サトウに後から届ける刀剣やその他の品物を記した目録を持参し、アーネスト・サトウより歓待を受けている。また、サトウの紹介でバジリスク号を見学し、これを期にサトウと平馬等との親密な関係が始まり戊辰戦争が起こった後もその関係は続いた。平馬はご馳走のお礼にと宴会に誘うが、幕府よりの文句により阻止されるかと思われるも、役人を撒いて宴会を行なったりした。アーネスト・サトウは『一外交官の見た明治維新』の中で、次のように記している。『梶原は、シャンペン、ウィスキー、シェリー、ラム、ジン、水で割ったジンなどを、またたきもせず、尻ごみもせずに飲み干し、飲みっぷりにかけては、他の人々をはるかにしのいだ。彼は色の白い、顔立ちの格別立派な青年で、行儀作法も申し分がなかった」。アーネストサトウ経由で長岡藩家老・河井継之助とも親交を深め、また、イギリス公使パークスを紹介され、さらにスネル商会を知り、彼から武器弾薬を購入し会津藩の武備近代化にも心を砕いた。
鳥羽伏見の戦いに敗れた後、江戸に戻った会津藩士が会津に帰郷するなか、平馬等28名は江戸に残留し、スネルを通じて銃器類を買い付け、また旧幕府勘定奉行より資金を借りて大砲・洋銃を手に入れ、船で長岡藩家老河井継之介・桑名藩士等と共に箱館を経由して新潟より会津に持ち帰った。そして奥羽が一丸になれば薩長に対抗できる勢力になると考え仙台・米沢両藩に奥羽越列藩同盟の結成を働きかけた。
列藩同盟の結成に先立った慶応4年4月29日、仙台領にある関宿において仙台・米沢・二本松各藩の代表と「会津藩救解」について会談の席に着いた平馬は、新政府総督府への交渉前提として要求された「藩主の城外謹慎と、首謀者の首級差出」のうち「首謀者の首級差出」を断固拒否、「それでは開戦は避け難い」という仙台藩士但木土佐に対して、「ならば、会津は全藩を挙げて、死をもって国を守るのみである」と応じた話は有名。その実、平馬はその席において「今ここで私が切腹しますから、この首をお持ちくだされたい」と主張したといい、実際米沢藩重臣はそのようにしようとしたが、「首を持っていくのは新政府からの沙汰があってからでよい」ということに落ち着いたという。
このように列藩同盟の結成に粉骨砕身し、新潟港を管理する等活躍したが、長岡が陥落すると新潟港も新政府の手に陥ちて、平馬が苦心して確保した会津への武器の補給路は完全に断たれてしまった。
会津戦争に先立ち、山川大蔵の姉・二葉と離婚し、京都で知り合った水野テイを妻に迎えたと伝えられ、二葉との間にできた子・虎千代(のちの景清)は、会津戦争の際に現在の湯野上方面に避難したという。
貞との間には「シツヱ」と「文雄」という子供があり、シツヱは明治11年5月2日函館生まれで、文雄は明治18年6月6日根室生まれである。
会津に戻った後は容保の側で政務を総掌し、8月23日城下に西軍が侵入した際には城内に在った家老は平馬のみという状況に陥り、西郷頼母が馳せ来て奮戦する。
敗色濃厚となると、米沢藩を通じて降伏条件の交渉を重ねる。開城にあたっては、降伏式後、萱野権兵衛によって家老・若年寄等の連署した嘆願書が軍鑑・中村半次郎に提出され受理される。
戦後は 藩主父子に従って東京へ行き、容保と共に因州池田邸で謹慎。
謹慎中も家名再興運動に尽力し、明治3年謹慎が解けると秋に兄・信節の居る斗南へ船で向かっている。
斗南藩では、先妻・二葉の弟・山川浩が大参事として活躍していた。
明治8年会津に戻った後のを境に平馬の消息は詳しくわからなくなる。
廃藩置県後は青森県に出仕して庶務課長となるが、2ヶ月程度で辞職。この間、柴五郎少年を給仕に任命している。
その後旧藩の雑賀孫六郎に誘われて函館・根室と移ったが、妻・貞が明治14年11月花咲尋常高等小学校に就職したため、平馬もともに移転し、緑町1丁目で文房具店を開く。
妻・貞は20年に退職、私塾を建てたので平馬もその私塾を手伝った。22年6月さらに私塾を私立女子小学校として改称し経営することになるがその開校を間近に控えた明治22年3月23日平馬は享年47歳でこの世を去る。
結局、貞の創立した私立根室女子小学校はのち生徒の増加により経営が困難となり、生徒は花咲小学校と弥生小学校の二校に転校させて発展的に解消した。のち明治32年花咲小学校に再度勤務し、昭和2年2月20日79歳で死去している。平馬との子、文雄もまた花咲小学校に教鞭を執るが若くして世を去っている。
平馬の墓の在処がわかったのは100年以上の年月を経た昭和63年になってからで、内藤家にあった古い過去帳が発見されてからである。
墓は北海道根室市西浜の耕雲寺。

参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社
前田宣裕氏著『会津戦争の群像』歴史春秋社
好川之範氏著「梶原平馬」
『幕末・会津藩士銘々伝』新人物往来社 所収



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