原 直鉄
はら・なおてつ



(1848〜1870)


会津藩士。
若松城下の本二ノ丁・原早太(360石)の長男で、早太は白虎寄合一番隊隊長として9月15日の一ノ堰戦で負傷し、同月26日に死亡した。47歳。
直鉄は俊敏な少年なので16歳から容保公の側役に選ばれ京都に勤務していたが、1868年(慶応4年)鳥羽・伏見の敗戦後、大坂引揚げでは苦労して紀州由良浜から正月末に小舟で漸く三州吉田へ逃れた。
江戸総引揚げ後は残留30人の1人となって江戸に残り軍事再興をはかり、旧幕府脱走兵の歩兵差図役として関東各地を戦い、今市で大鳥圭介の軍に合した。
戊辰敗戦後、若松へ帰ったが猪苗代で米沢藩の雲井竜雄と意気投合し、会津開城後は東京飯田橋元火消し屋敷の監禁所を脱走、雲井竜雄の政府転覆計画に賛同して食糧、軍資金調達のため石橋県を襲い日光方面に立てこもる計画を立て日光方面で金策を担当していた。しかし雲井が明治3年7月、事前に捕縛されると直鉄も捕まり、旧会津藩士では同年12月28日、簗瀬勝吉や能見武一郎とともに斬罪となった。
直鉄23歳。
会津の自在院啓範や加藤武蔵らもこの事件で牢死している。

参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社
宮崎十三八氏著『悲劇の会津人』新人物往来社



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