萱野 権兵衛
かやの・ごんべえ



    
(1830〜1869)


会津藩士。
家老・
権兵衛長裕(1500石)の長男として生まれ、
名は長修(ながはる)。初称は恒治。
若くして学問・武芸を修めて人望があり、性格はきわめて温和であった。文武両道に優れ、剣は一刀流溝口派の達人。戊辰会津戦争の責任を一身に引き受けた家老である。
文久2年(1862)、京都守護職となった容保に従って入京し、翌年父の隠居によって家禄1500石を継ぐ。慶応元年(1865)家老となり、会津戦争の際は包囲された若松城の外にあって、兵糧を城内に送ることを指揮した。
降伏開城後は、喜徳に付き添って東京の久留米藩邸に謹慎していた。
明治2年会津藩の処置について政府の軍務局から、容保父子を助命するかわりに戦争の首謀者3名を申し出るように要求してきたのだった。
家老の席次からすれば権兵衛は4番目であったが、このとき西郷頼母は行方不明で、田中土佐・神保内蔵助の両人はすでに自刃していたため、席次から首謀者ということで藩の責任を一身に引き受け切腹する。
明治二年(1869年)五月十八日、保科邸に移されて自刃の形式をもって斬首。これに先立ち、身なりを整えて食事をすませ、同藩の井深宅右衛門に竹の火箸を使って自分が極めていた流儀を絶やしたくないとして溝口派一刀流の秘伝を授けたという話は有名。
またこの権兵衛の次男は悲劇の人・郡長正である。
享年40。
墓は東京都港区芝白金興禅寺。会津若松市天寧寺にも累代の奥津城、阿弥陀寺に遥拝碑がある。法号は報国院殿公道了忠居士。

参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社
間島勲氏著「会津藩士人名小事典」歴史春秋社『幕末会津藩』所収



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