篠田 儀三郎
しのだ・ぎさぶろう




(1852〜1868)


白虎士中二番隊自刃隊士。
白虎士中二番隊嚮導。
若松城下、米代二ノ丁供番200石篠田兵庫二男。母しん子。
信義を重んじ責任感の強い少年に育てられた。
6,7歳の頃、友と蛍狩りの約束をしたことがあった。しかしあいにく当日は荒れ模様の天気となり、日暮前には暴風雨の様相すら呈してむろん蛍など一匹たりとも飛んでいるわけがない。しかし儀三郎はしっかりと蛍狩りの支度を整え、豪雨をついて友人宅に現れたのである。「こんな天気にどうして・・・?」と驚く友に対し、儀三郎はこう言った。「天気がどうあろうとも、約束をした以上はそれを守らねばならない。だから来た」。そして、「しかし、あいにくの天気であるから、蛍狩りはまたの機会にしようと思う」と次を約して帰っていったという。誠実で信義に厚い儀三郎の行いはいつも斯くの如きであり、別のある日には、友人宅で集会の約束をしていた当日が朝から雹の降る酷寒の日で、「まさかこんな日に誰も来るまい」と高をくくった友人が何の準備もしないでいたところ、ただ独り時刻どおりにやってきたのが儀三郎であった、ということもある。何事にも優れた資質をもち、責任感が強く成績優秀であったため、二番隊の嚮導に推され出陣嘆願書を軍事奉行へ安達藤三郎と届ける。
嘆願が叶い、軍事奉行配下となり、藩主・容保の護衛として滝沢本陣へと出陣するも、状況はことのほか思わしくない。「敵十六橋に迫る」という情報に白虎隊も前線へは出ず、後方支援をするという事で糧食を置いたまま戸ノ口原へ赴く。
戸ノ口原では闇夜雨中で塹壕掘りなどをしていたが周りの状況が的確に判らない為、時間を無為に重ね、置いてきた糧食がここで仇をなす。隊長・日向内記は糧食の確保の為その場を離れざるを得なくなり、儀三郎が代って指揮をとることになる。血気盛んな若者達のまとめ役でありながらも自らも若者である。満場一致で前線へ出て会津の為に戦う事を選び前進する。
暗い山道の行軍でろくに食事も取っていないせいか、既に二番隊のうち20名が隊から離れてしまう。さらに突如敵襲を受け、
ついに退却するに至った際、原田克吉半隊頭に率いられてすでに斥候に出ていたグループと、山内小隊頭に率いられたグループと、嚮導である儀三郎が指揮したグループと、少なくとも3つに分かれていたと思われ、これが退却行の混乱の中でさらに集合離散を繰り返したらしい。
儀三郎とともに飯盛山の自刃の地へたどり着いたのは、最初おそらく16名で、その自刃後に石山虎之助が同所で友の後を追って17名となり、後に蘇生した飯沼貞吉を除いた上に生還していない3名を加えて19名となった。
飯盛山で最期のときは愛唱していた文天祥の詩を朗々と吟じた。
中国宋・文天祥『零丁洋を過ぐ』
〜人生いにしえより誰か死なからん 丹心を留取して汗青を照らさん〜吟じ終えると石田和助が一足先に自刃。儀三郎は「和助に遅れるな」と声をかけ、一同の模範を示すように喉をついて、前に伏した。
墓は福島県会津若松市一箕町飯盛山。
(自刃時17歳)

参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社
宗川虎次氏著『補修會津白虎隊十九士伝』会津弔霊義会
小桧山六郎氏編『会津白虎隊のすべて』新人物往来社 




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