間瀬 源七郎
ませ・げんしちろう




(1852〜1868)


白虎士中二番隊自刃隊士。
会津藩士・新兵衛利貞の次男。母は黒河内図書の三女、マツ。若松城下に生まれる。名は利恒。
幼い頃から温厚で慎み深い性格で、尚且つ面長で色白の美少年であったた。そのためか幼少時から小姓として君公(容敬)の近くに伺候する機会が度々あり、その際に拝領した玩具がいくつも家に残されていたという。
数え10歳で日新館に入学。学籍は三礼塾二番組。数え16歳で講釈所生。不時備組を経て白虎二番士中隊に編入。2人扶持。
白虎士中二番隊士としては、おそらく唯一源七郎にのみ許婚がいた。名を皐月というが、その後については未詳。
出陣した時の服装は、白木綿の筒袖を内に着用し、紺羅紗のマンテルを外套として羽織り、紫縮緬紐の義経袴を着けて、鷹匠足袋に草鞋を履き、蝋色鞘の大小を帯び、ゲベール銃を肩に担いで、黒革に梅鉢の紋章をつけた弾薬胴乱を腰に着け、茶筅髷を結って韮山笠をかぶる、というものであった。出陣に当たり父・新兵衛が「独断専行して一人勝手に進むこと、勝ちに乗じて深追いすること、虜囚の辱めを受けて家名を汚すこと、以上のことは決してしてはならぬ」と訓戒したと伝えられている。1868年(慶応4年)福良に出張。同10月7日(旧暦:8月22日)戸ノ口原へ出陣し、翌日飯盛山で自刃。
戦後、戦死者改葬の令が出されてから、3人の姉(ミツ・ノブ・ツヤ)は飯盛山で自刃した白虎隊士たちの衣服が散乱している現場を見つけ、その中に自分たちが手ずから縫って源七郎に与えた衣類を見出し、ここに源七郎が自刃して葬られていることを知った。彼女らは「戦場に葬られるのは武士の本望でしょうから、あえて改葬の必要はありますまい」と遺物の衣類のみをかき集めて戻り、それを柩におさめて会津若松市東山の天寧寺の先榮の傍らに埋めたという。
篭城していた姉・ミツが丹念につけた日記が現在も残っており、篭城中に妹・キヨが女児を生んだことや、戦後斗南藩へ移住して再び会津へ戻るまでのことが書かれていて戦争体験のよき史料となっている『
戊辰後雑記』。
墓は会津若松市飯盛山。
(自刃時17歳)

参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社
小桧山六郎氏編『会津白虎隊のすべて』新人物往来社 




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