古川 春英
ふるかわ・しゅんえい



(1828〜1870)


会津藩士。
文政11年(1828)1月4日、駒板村の農家古川長蔵の末子として岩代国耶麻郡駒坂村(現・河東町)に生まれる。幼名、留吉。
幼い頃から俊逸で、日吉丸の異名があったという。13歳で医師になることを決意、若松の山内春瓏の家弟となって医術を学んだが、ほどなく漢方医学の限界を感じ、会津を出奔して大坂の緒方洪庵塾に入門する。
安政4年(1857)、会津藩に蘭学所が開設されたのを聞いて会津に戻り、蘭学所の責任者である野村監物のとりなしによって帰藩を許され、蘭学所の教官となって山本覚馬らと教鞭をとる。
その後、蘭学所の組織替えを機に箱館に渡って会津藩の陣屋詰め医師となる。しばらくするうちに日々進歩する医学に遅れをとってしまっていることを痛感し、再び大坂の緒方洪庵のもとで学び、さらに長崎に渡って蘭医ボードウィンに師事した。この長崎で松本良順と出会い医学を学ぶ。
慶応4年(1868)戊辰戦争が勃発し、戦地から後送されてくる戦傷者の手当てに窮した藩は、松本良順に応援を依頼する。良順は会津に赴き、治療を手がける傍ら「古川春英はどこにいるのか。会津藩には名医古川春英がいるではないか。早く彼を呼びなさい」と藩首脳部に訴え、藩は慌てて春英を探し出して召還させたという。会津戦争中、城内で神業的な外科手術や治療を行い多くの命を救ったが、このときの婦女子の協力を得た治療看護活動は、後世の看護制度の嚆矢ともいわれているという。
篭城戦の際は城内の病院で活躍する。
戦後、島村(現・河沼郡河東町)の治療所所長を経て若松千石町の治療所に移り、患者の治療や子弟の教育に力を傾注したが、明治3年(1870)流行したチフスの治療に当るうちに自らも感染、11月7日邁進し続けた生涯を閉じた。
享年43歳。
最初融通寺に葬られたが、のちに故郷の駒板(福島県河東町駒板)に改葬された。。
墓地は福島県耶麻郡河東町駒坂にある。

参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社
長谷川和夫氏著
「古川春英」『幕末・会津藩士銘々伝』新人物往来社 所収




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