伴 百悦
ばん・ひゃくえつ



(1827〜1870)


会津藩士。
知行500石。若い頃から苛烈な性格だったらしく、文久年間の物頭時代には問題を起こし降格処分に処せられたりしたこともあったという。
会津戦争においては、水原府鎮将・萱野右兵衛のもとで組頭として越後へ出陣し、慶応4年5月3日の片貝の戦い以降は負傷した土屋総蔵に代わって朱雀寄合二番隊を率いて戦う。萱野隊副隊長として越後長岡方面で奮戦。
鶴ヶ城開城後、家老の原田対馬や町野主水らとともに「若松取締」として残留し、賊軍の名により城内外に戦死した会津藩士たち2000余の遺体が放置してあるのを西軍に嘆願し、当初薬師河原の罪人塚への埋葬が指示されていたのを撤回させて阿弥陀寺と長命寺への埋葬許可を取り付け、さらに人夫らの遺体に対する扱いが粗略だと見るや、自ら賎民に身を落とし埋葬方になり、作業を監督・埋葬作業にも従事したという。
実にかなりの時間が経過した後にようやく戦死者の遺体は阿弥陀寺と長命寺と他16ヶ所に埋葬され供養されたのである。
いっぽう、若松には新政府が派遣した役人が多数派遣されてきていたが、その中に民政局監察方頭取兼断獄という肩書きで越前藩士の久保村文四郎という人物がおり、日ごろから会津人に対して苛烈な施政を行い、藩侯容保を愚弄嘲笑して憚ることがなかったので、強く会津人から憎まれていた。明治2年7月12日、この久保村が帰国する際、百悦は高津仲三郎や井深元治らとともに束松峠で待ち伏せして襲撃、斬殺した。世に「束松事件」という。
事件後、越後へ奔り、大安寺村(現・新潟県新津市)の有力者坂口津右衛門のもとに身を寄せた後、明治3年6月には同村内の慶雲庵という小寺に潜伏したが、村松藩の捕吏に踏込まれて戦ううちに自刃した。
享年44。
遺体は村人によって慶雲庵に埋葬され、自然石の墓標が建てられた。昭和41年、墓地が整備されて墓碑が建立され、現在に至る。
墓は新潟県新津市大安寺の慶雲庵。

参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社
前田宣裕氏著
「伴百悦」『幕末・会津藩士銘々伝』新人物往来社 所収




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