浅羽 忠之助
あさば・ちゅうのすけ



(1831〜1897)


会津藩士。
名は茂徳。浅羽寛兵衛茂実(家禄100石)の長男。家禄を継ぎ、京都守護職となった藩主・容保に従って上洛し、小姓頭として常に近侍した。
鳥羽・伏見の戦いの際は命によって戦況を視察し、大軍を一方より進めることの得策でないことを進言した。前将軍慶喜が幕軍を残したまま、極秘裏に海路、江戸に帰ったとき、容保は重臣たちにも告げる暇がなくこれに従って行ったため、忠之助は神保修理と共にその跡をたずねて陸路を江戸まで帰って来た。このとき、容保が孝明天皇から与えられた宸翰を忠之助が携えてきたという。
戊辰の役には軍事奉行添役として従軍し、また主命によって各地に使いした。
開城後、謹慎生活を経て容保と行動を共にし、宮司となった容保に従って日光東照宮に出仕した。
明治30年11月病死、67歳。
彼の書き残した『浅羽忠之助筆記』は、戊辰戦争前後の貴重な証言である。葬所・法号(霊号)等は詳らかではない。

参考
間島勲氏著「会津藩士人名小事典」
歴史春秋社『幕末会津藩』所収



戻る

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送