有賀 織之助
ありが・おりのすけ




(1853〜1868)


白虎士中二番隊自刃隊士。
若松城下、本三之丁目付250石有賀権左衛門二男。母いく子。両親から厳しい薫陶を受ける。武芸に優れ
ことのほか腕力が強く、わずか9歳にして薙刀を縦横に振り回し、日新館の道場で剣を振ると太刀風が起こったという。ある日、友人たちと城下南方4キロばかりのところにある岩崎というところへ鶴沼川の遊泳に出かけたときのこと、折から河は雨後ということもあって濁流が渦を巻く、という状態であった。誰もがこれは無理だと諦めかけた時、1人織之助はくるくると着物を脱ぎ捨てると、一気に濁流の中に身を躍らせたのである。友人たちは呆然とし、次いで口々に岸に戻るよう大声をあげたが、織之助はかまわず泳ぎ続け、十数メートルも流されながら、ついに対岸にまで河を泳ぎきった。友人たちは安堵し、陸を伝って戻ってくるよう喚き勧めた。しかし、なんと織之助は呼吸を整えると再び濁流に飛び込んだ。そしてほとんど溺れかけた状態で、ようやくこちら岸に泳ぎ着いたのである。「何故、こんな無謀なことをしたのか」という友人らの譴責に対し織之助は、「男児は困難にあたって胆力を練るものだからだ」と平然と答えたという。嵐の日にすら約束の時刻を違えずやってくる織之助の信頼度は高く、多くの日新館生徒たちが織之助との交誼を望んだと伝えられている。
出陣の際、薄茶色の筒袖羽織に定紋付きの鼠色の着物を着て、紺の小袴をはき、赤塗鞘の刀を下げて、全くの和風のいでだちであった。
洋風は嫌いだったようである。戸ノ口原で敗れ飯盛山から黒煙に包まれた鶴ヶ城を見て、もう陥ったものと思い自決した。
墓は福島県会津若松市一箕町飯盛山。
(自刃時16歳)

参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社




戻る

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送