秋月 悌次郎
あきづき・ていじろう
(1824〜1900) |
会津藩士。 名前は胤永(かずひさ)。 藩校日新館に学び、のちに昌平坂学問所に入った。 京都守護職になった藩主松平容保にしたがって、公用方として諸藩との交渉、公武合体の融和に尽力。 安政6年(1859)、藩命により九州などの西国諸藩を遊歴し、列藩の政治制度や風俗などを観察しているが、この旅の途中で長岡藩の河井継之助としばらく行動をともにしている。 のちの会津戦争の際、長岡藩侯を会津へ退避させたらどうか、という秋月の進言を河井が受け入れたのも、このときの交誼が根底にあったからと思われる。 秋月を公用方に抜擢したのは家老横山主税常徳で、長年昌平黌にあって他国の藩士たちとの交流が深かった点と、卓越した観察眼や知性に裏打ちされた渉外能力を横山が高く評価したからであった。 事実、足利将軍木造梟首事件で関係浪士たちを大量捕縛した際、この逮捕の正当性を朝廷に説明しきったのは秋月である。 さらに薩摩から高崎佐太郎などが極秘に「会薩同盟」を持ちかけてきて、これが8.18の政変を成功させる原動力となるなどにおよび、藩内外における秋月の立場が急上昇した。しかしこれが一部保守派の反発を生み、後ろ盾であった横山が病を得て帰国し死亡してしまったこともあり、蝦夷へ左遷させられてしまう。 彼に再び京へ戻るよう書面が届けられたのは、薩摩藩があからさまな敵対行動をとるようになっていた慶応2年の12月のことであった。 戊辰戦争では軍事奉行添役として越後方面に出陣。 会津戦争終結後、若松真龍寺の僧河井善順の従僕に変装して謹慎地の猪苗代を脱走、越後で旧知の長州藩士奥平謙輔に面会して会津藩救解のための助力を依頼するが、この帰途に作った「北越潜行」の詩は「会津人の三絶句」の一つとして有名である。 開城時には米沢へ手代木勝任と共に降伏の使者にたち、禁固され明治5年赦免となる。 その後太政官から各高等学校の教職に就き、明治28年熊本第五高等学校を最後に退職した。 五高時代の同僚ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)がいる。 ハーンは秋月と接して、彼を「神のような人」と言った。 参考 松本謙一氏著「秋月悌次郎」 『幕末・会津藩士銘々伝』新人物往来社 所収 |
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