赤塚 武盛
あかつか・たけもり



(1852〜1879)


旧会津藩士。
赤塚治定の子。

戊辰戦争後東京に出て警視庁に入り、第二方面第五分署(品川警察署)権少警部となった。
西南の役(1878)の際には警視隊として出動した。4月13日、豊後口警視隊は阿蘇外輪山の坂梨峠の累によって守る薩軍を攻撃したが苦戦となった。
当時四番小隊什長警部補であった赤塚は単身挺進して敵累に飛び込んで勝機を開き、別働第三旅団第五大隊第八小隊長に任命された。6月21日肥薩国境を越えて薩摩領川内川畔において薩軍と対峙したが、薩軍は舟を全部自分の陣屋の岸に繋いでいたので渡河することができなかった。これを見た赤塚は身を躍らせて激流に飛び込み、敵前の急流を抜き手を切って対岸の舟を確保し、味方の大勝利の原動力となって警視隊は宮之城を占領することができた。
役後、第二方面第五分署(品川警察署)に勤務していたが明治12年4月7日夜、管内巡視中に凶賊と出会い、突如として斬り付けられて重傷を負った。だがひるまず格闘となり、逃げようとする賊を追跡中、巡邏中の巡査に凶賊と見誤られ、急報によって駆けつけた十数名の巡査に取り囲まれて警棒で滅多打ちされて非業の死を遂げた。葬式の際は、非業の死を悼む同僚巡査の数1000人を超えたという。
谷中の墓地に葬られた。
享年28であった。

参考
小島一男氏著『会津人物事典(武人編)』歴史春秋社




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