赤岡 大助
あかおか・だいすけ



(1824〜1878)


会津藩士。
名は忠良、字は子誠、三余堂・三友と号する。
玉木氏の二男に生まれ赤岡姓を称す。
会津藩江戸邸常詰の目付職を勤め、11石2人扶持。
江戸では相当に著名な文人として認められていたらしく、文久元年(1861)版の『当時現在公益諸家人名録』に「歌書」としてその名があり、同3年版の『文久文雅人名録』にも会津藩士として載せられている。また武芸にも達し、そのため藩主の養女照姫(容保の義姉)の薙刀指南役をつとめていたという。
会津戦争で戦死した中野竹子は、戊辰戦争の前に禄をはなれ、坂下の玉木家に寄寓していた大助について書と武芸を学び、後にその養女となったが戊辰の年に赤岡家を去って中野家に帰っている。
大助の甥との結婚をすすめられた竹子が、これをきらったためだといわれている。
橋爪(哂斎)撰の「赤岡小竹墓」には「赤岡忠良に従って書および薙刀八相小剣一刀流刀術を学び、皆室に入る」(原漢文)とある。維新後は青森から函館に移り、そこで初めての牛鍋屋を開店していたという。
明治11年9月28日、函館において没す。
55歳。
法号は迎雲院聖誉楽音衆来居士。
清川寺に墓がある。

参考
間島勲氏著「会津藩士人名小事典」
歴史春秋社『幕末会津藩』所収



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