赤埴 平八
あかばね・へいはち



生没年不詳


会津藩士。
松平譜代の臣で、祖先は保科正之に従って会津に来住し、280石を拝領した。平八は20石を減じた260石扶持を給され、日新館の北通りに住した。
戊辰の役には力士隊として各地に転戦した。力士隊は3月ころに編成をみ、閏4月、東部国境の警備に配置された。5月25日、第1次白河城奪回作戦に当たり平八の力士隊は須賀川より矢吹に進み、翌26日柏野村に集結した蜷川友次郎率いる青龍三番足軽隊・小池帯刀率いる土工隊とともに白河城外雷神山の西軍を攻撃した。6月11日の第4次奪回作戦では大平口総督原田対馬を主将とする赤埴平八の力士隊、大立目武蔵率いる仙台藩士、森要蔵率いる飯野藩士(36人)、農兵、それに横山主税家臣らは夜半に羽太村(西郷村)を発し、翌早朝白坂に屯する黒羽藩兵を急襲した。さらに7月1日の第6次奪回作戦では激戦のうえ遊撃隊頭の遠山伊右衛門が戦死し、後任の三宅小左衛門は平八を遊撃隊の組頭に任命し、力士隊隊頭と兼務させた。
のち、遊撃隊と共に越後口戦線へ転じた力士隊は、原早太率いる白虎寄合一番隊らと共に赤谷で激戦を展開したが、8月14日、ついに平八は戦死した。
享年34。
墓は会津若松市大龍寺。

参考
小島一男氏著『会津人物事典(武人編)』歴史春秋社



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