安達 藤三郎
あだち・とうぶろう




(1852〜1868)


白虎士中二番隊自刃隊士。
隊の指図役の一人。
若松城下、米代一之丁物頭400石小野田助左衛門四男。母ミサ。幼少のころ安達家を継ぐ。温和だが勇気があり秀才の誉れが高かった。

某年4月8日、友人たちと若松城下から北方4キロほどのところにある木流村へ馬頭観音堂の祭礼を見物に馬を駆って出かけたときのこと。あとわずかで観音堂というところで、堂宇付近で酔漢が馬を麦畑に乗り入れて大騒ぎになっているのが望見された。藤三郎はすぐさま馬首を返し、もと来た道を引き返してしまった。慌てて後を追ってきた友人たちが理由をたずねると、「李下に冠を正さず、瓜田に沓を入れず、だよ」と笑って答えたという。慎重な藤三郎は、現場に馬で乗りつけて村人からあらぬ疑いをかけられることを避けたのである。婦人のような優しい容貌を持ちながら、ひとたび事にあたると驚くほど凛然とした態度で臨む若者であったと伝えられている。
1868年7月下旬、白虎隊出陣の建議書を隊員37名の代表として軍事奉行萱野権兵衛のもとへ隊の嚮導篠田儀三郎と出向く。
慶応4年の7月のある日、若殿喜徳に従って福良に出張してきた藤三郎ら白虎士中二番隊は、宿の入口にある関門で警衛の任についていた。するとそこを馬上のまま通過しようとする洋装の武士があった。藤三郎が銃を構え「待てっ、何者か!」と制止しようとしたが、武士は馬を止めようとする気配がない。ついに藤三郎は銃を2発威嚇発射をした。さすがに武士は驚いて馬をとめ、馬首をめぐらせて藤三郎の前まで戻ってきた。武士はいかにも歴戦の勇士たる貫禄を漂わせており、そのにじみ出る迫力たるや並々ならぬものがある。しかし藤三郎は、これに臆することなく「姓名を名乗られよ」と銃を擬したまま言った。武士はうっすらと微笑み、「これは失礼した。新選組の土方歳三である。急用のためまかり通る」と応えたため、その勇名を聞き知っていた白虎隊士たちは仰天した。「これは失礼致しました」「いや、無礼なのは当方であった。許されよ」 そしてその夜、宿舎に土方を訪ねた藤三郎ら白虎隊士たちは、土方から興味深い話をいくつも聞かせてもらえたという。
戸ノ口原で奮戦後、飯盛山で自決。
墓は福島県会津若松市一箕町飯盛山。
(自刃時17歳)

参考
『幕末維新人名事典』新人物往来社




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