安部井 政治
あべい・まさはる



(1845〜1869)


会津藩士。遊撃隊士。
香坂源吾の次男として若松城下に生まれ、安部井仲八の養子となる。
藩校日新館から1861年江戸昌平黌に学んだ秀才。洋式築城学を研究、戊辰戦争では江戸引揚げ後も留まって敵情を探り、後は奥羽列藩同盟結成のため各藩を遊説中、仙台で母成峠敗戦の報を聞き、帰城できず榎本武揚軍に参加、会津遊撃隊左図役となる。
明治2年4月28日、すでに松前を新政府軍に奪われ、箱館での「本拠地決戦」の様相が色濃くなってきているおり、箱館軍総裁の榎本武揚は居並ぶ将士らに向かって次のようなことを言った。「近来、会津人士の臆病さは目に余るものがある。彼らはただ逃げるのみだ。これではまったく頼みにならない」政治はこれを聞き、あまりの悔しさに拳を握り締めて涙を流した。そしてその翌日、新政府軍が矢不来に攻め来り、政治はこの防衛最前線にいた。兵を叱咤激励し、銃弾が驟雨のように降り注ぐ中を駆け続け、崩れかかる味方を何度も立て直して敵の進軍を押し止めたが、圧倒的に有利な火器を有し、沿海から軍艦による艦砲射撃の援護を受ける新政府軍の勢いを止めることはついにできず、退却のやむなきに至る。しかしそれを進言する部下や他隊の将に対し決然と首を振り「君らは還って榎本氏に我が死を告げよ。我が隊は刀も折れ、弾も尽き、もはや為すすべもないが、この安部井は一歩たりとも退かぬ。はたして本当に会津人士が臆病者かどうか、逃げるばかりであるのか、君らは我が死様を榎本氏に告げるのだ、会津武士の勇敢さを見よ」と言い残し、激戦の中に身を投じて壮絶な戦死を遂げた。後にこれを聞いた榎本は、「失言で、我が俊良を失ってしまった」と悵恨痛惜し、戦後に至っても「私が安部井政治を殺したようなものである。今に至っても自分の不徳が恥ずかしく、返す返すも彼の死が惜しまれてならない。存命であれば、明治政府にあって重要な地位を占めていたであろうに」と語り続けたという。
亨年25歳。

参考
稲林敬一氏著「安部井政治」
『物語・悲劇の会津人』新人物往来社 所収




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